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故郷への道――中國在留日本人の葫蘆島からの引き揚げ

59年前の1946年5月7日、2隻の船が中國遼寧省西部の葫蘆島港をゆっくりと離れ、2489人の中國東北地區在留日本人とかつての捕虜たちがこの地から日本に引き揚げる道の第一歩を踏み出した。それからの3年間に、當時それほど知られていなかったこの小さな港から引き揚げた日本人の數は150萬人を超えた。これは第2次世界大戦終結後、戦勝國が戦敗國の海外在留民の引き揚げのために実施した最大規模の送還行動の一つであった。60年近くが経って、葫蘆島から引き揚げた百萬人の日本人は日本の各地に暮らしており、いまでも健在である人たちは古稀を過ぎることになった。しかし、この人たちは中國の人たちのことを忘れておらず、葫蘆島のことも忘れてはおらず、この人たちの心の中の「生まれ変わった土地」を忘れてはいない。

第2次世界大戦全體を見渡すならば、ファシズム侵略軍は被侵略國に侵入したあと、侵略國の一般の人たちもそこに大勢移住していた。この人たちが土地を略取したり、資源を占有したり、地元の市場を獨占したりして、侵略國の侵略國策に奉仕する役割を果たした。敗戦後、大勢の移住者は本國に引き揚げ、苦難に満ちた時局の下で苦痛にみちた生活をし、當該國の侵略の國策の犠牲となった。

日本の青少年 やさしい中國人が私の心を溫めてくれた

「やさしいおばあさんが私の心を溫めてくれた」。60年の歳月の流れの中で、當時の少年だった間瀬氏はすでに中國古代史教授となっている。少年時代の逃亡生活の途中で実感した慈しみや恩はずっと記憶の中に殘りつづけていた。

1945年10月11日、日本はすでに無條件降服を宣言していた。當時、召集されて入隊した15歳の間瀬収芳氏と120數人の日本人の青少年からなる開拓団の人たちは実はソ連軍に抵抗するための盾の役を果たす兵卒に過ぎなかった。彼らは南東方向に向って懸命に進軍した數日後に、石頭村(今の黒竜江省寧安市石頭村)にたどりついた。當時の彼らはすでに飢えと渇きとがともにさいなまれていた。體力がもうそれ以上もたせなかったので、間瀬芳収氏は村の入るところで気を失って倒れた。晩秋の黒竜江は天気が涼しくなっていたが、あるおばあさんの家族全員が弱わりきった間瀬さんを気持ちよいオンドルの上の床に橫にしてくれ、意識を取り戻した早瀬さんに人間の溫かみを感じさせた。

間瀬氏は「私たちのような子供たちは石頭村の村民の配慮を受けたからこそ生き延びることができたのである。心のやさしいおばあさんは私の心を溫めてくれただけでなく、私を生まれ変わらせ、新しい人生を與えてくれたのである」と當時を振り返りながら語った。

間瀬氏と同じように石頭村の村民たちのおかげでそこに落ち著いた120數人の日本人の青少年たちも地図にものっていないこの小さな村で運命が変わり、無事暖かい一夜を過ごすことができた。

翌日の明け方、これらの日本の青少年たちは石頭村の村民たちが贈ってくれた長持ちの攜帯食料を持って出発した。彼らは長春を経由して葫蘆島にたどりつき、そこから本國へ引き上げたのだが、複雑な思い出が殘る中國や人生の一段階としての重苦しい歳月と完全に別れを告げることになった。

その後作家になった田原和夫氏もこの120人の中の一人であった。「私は本を書きたい。石頭村の村民たちが私たちのような――敵國の子供たちに親切に行き屆いた世話をしてくれたことに対する感謝の気持ちを書き続けていきたいと思う」と語った。こうした回想をもとに、「ソ連國境?15歳の夏」という作品が生まれた。

百余りの劇作品のある作家の國弘正雄氏は自ら資金繰りをして『葫蘆島からの引揚げ』というドキュメンタリー映畫をつくった。氏は2000年に亡くなった。生前実現できなかった氏の願いは自ら経験した石頭村での一夜を記録した『石頭記』という映畫をとることであった。夫に先立たれたあと、夫人の國弘佑子さんはこの時の歴史を記録に殘してありのままに後世の人びとに伝えていきたいという気持ちを込めてそれを実現するために奔走している。

葫蘆島在留日本人の引き揚げと関連のある重要な出來事

1868年に、日本の明治天皇は朝鮮と中國を侵略の目標とし、1歩進んでアジアで覇をとなえ、世界を征服するという「大陸政策」を制定した。

1890年、日本の山県有朋首相は、「國家獨立自衛ノ道二ツアリ、一ニ曰ク主権線ヲ守禦シ他人ノ侵告ヲ容レズ、二ニ曰ク利益線ヲ防護シ自己ノ形勝ヲ失ハズ、何ヲカ主権線ト謂フ、疆土是ナリ、何ヲカ利益線ト謂フ、隣國接蝕ノ勢我ガ主権線ノ安危ト緊シク相関係スルノ區域是ナリ……」と提起した。「利益線」という理論の出現は、日本の「大陸政策」が新たな段階へと発展をとげたことを示すものである。 

1908年に、「満鉄」(南満州鉄道株式會社)の初代総裁だった後藤新平氏は日本の內閣総理大臣に「今後十年を出でずして、わが移住民の數50萬、可能であれば100萬に達せししむる」という覚書を提示した。

1915年に、日本は大連の金州大魏家屯で最初の移住民村――「愛川村」をつくり上げ、日本山口県玫珂郡の愛巖村と川下村からきた19人の農民をそこに定住させた。このような移住民の方式はその後の集団移住民の前例となった。

1932年に、日本拓務省は『満州移民問題懇親會』を開き、「満蒙移植民計畫」を作成した。関東軍の東宮鉄男大尉は中國東北部永住の農業武裝移住民案を提起した。

1936年に、日本の広田弘毅內閣は中國の東北地區への移住民は日本の「七大國策」の一つだと正式に表明し、20年以內に中國の東北地區へ100萬世帯、500萬人の移住民に乗り出すというぼう大な計畫を立てた。これによって、農業移住民を主とする3回目の大きな移住民の高まりが見られた。

1937年7月7日、日本は中國侵略戦爭を全面的に引き起こした。

1945年8月15日、日本は戦敗で降服した。

1945年9月29日、中米參謀長連合會議が中國陸軍総司令部宛に出した覚書きの中で「東北(舊満州)の日本人引き揚げ計畫」に言及した。1944年9月現在、中國東北各地に住んでいた日本人の移住民は166萬2234人に達した。

1946年に、3人からなる當時の軍隊移動配置処グループ(アメリカのマーシャル、中國共産黨の周恩來、國民黨政府の張群の各氏からなる)は協調を行った上で、東北民主連合軍が責任をもって朝鮮を経由して丹東在留日本人7萬5000人を日本へ引き上げさせること、ソ連軍が大連在留日本人27萬人を直接に引き揚げさせること、東北地區に殘っている在留日本人とかつて捕虜であった人たちをすべて葫蘆島港に集めて本國へ引き上げさせることにした。

1946年5月7日に、2489人の中國東北地區在留日本人を乗せた2隻の船が葫蘆島を離れた。これで「葫蘆島大帰還」の序幕が切って落とされた。

1946年9月4日に、第105陣の中國在留日本人が帰國し、その日は4隻の船が出港し、延べ1萬5908人が運ばれ、一日で引き揚げた人數が最も多い日であった。

1946年12月25日に、その年の最後の在留日本人3659人が葫蘆島を離れた。

1947年に第12陣としての2萬9627人の在留日本人が本國に引き揚げた。

1948年6月4日から9月20日にかけて、最後の在留日本人引揚者3871人が空路で瀋陽から錦州に向かい、葫蘆島から船で本國に引揚げた。3年間続いた中國東北地區在留日本人、かつて捕虜であった人たちの引き揚げ作業はこれで終了した。引揚者の総數は105萬1047人であった。

寫真は中國人の恩を忘れないために引き揚げた日本人が葫蘆島の竜灣公園に建てた石碑  

「チャイナネット」2005/05/24

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